「思う」ことと「考える」こと

平成23年(2011)9月


 先日旧友と京橋で飲んだ時、彼は退職した
ら3年ほどをかけて、対称性の破れ、あるいIMG_0364.JPG
はひずみをもとにして、物理学的アプローチ
で、物語を紡ぎたいという希望でした。

 徳川家光の時代、約400年ほど前フランスに、
パスカルの定理やパスカルの原理を提唱した
ブレーズ・パスカルという信仰にあつい人が
いました。
 彼の死後に出版された随想録の中に「人間は
考える葦(あし)である」という言葉があります。
 また同時代のフランスに、ルネ・デカルトと
言う人がいて、その人は「われ思う、ゆえに
我あり」という命題を定式化しました。両者が
使っている、行為としての「考える」と「思う」
という言葉の違いには、何か意味があるのでしょ
うか。
 二人とも当時ラテン語で記述したのでしょうが、
読めないので直接確認のすべはありませんけど。
 
 聞くところによると、英語では man is a think
-ing reed であり、i think, therefore i am で、
たんに翻訳上の違いらしいんですが、「日本語」の
「考える」と「思う」という行為の差異に、私
自身は「今」ひっかかっているのです。

 「感じる」という行為は、「考える」と同様に
重要な行為だと思っています。「感じる」という
行為と「考える」という行為の中間辺りに「思う」
という行為があるのかなぁ、と考えたりします。

 あまり考えず、思ったり感じたりして、私は1日
を過ごしているようです。決断については、 えい、
やぁーと。たまにはヘコんだりして生きています。

 それと、演繹的思考に引かれるのに、なぜに私は、
日常生活では帰納的なんでしょう(笑・・・)

 デカルトさんは感覚は信頼に値しないと言って
います。表象をつかみ取るのは私の中にある
 cogitos(知性・思考) だそうです。そんなこと
言われてもねぇ。(笑・・・)
 こうなると、仏教の色即是空や、プラトンの
イデア論にまで飛んでしまいますよね。