平成22年(2010)2月
先日、台湾に用事があり、向こうに行った折(病気見舞い)、
戦前の日本時代に起きた台湾原住民による抗日事件の場所に、
寄ってきました。
場所は台湾の中西部に位置し、「霧社」という所です。
曲がりくねった山道をバスで登り続け、海抜は1,148m、
周囲を3,000m級の高い峰に囲まれた小さな平地で、一番大き
な建物は警察署かと思えるほどの、街道筋の街でした。
最初の私の素朴な疑問は、なぜこんな山奥にまで、当時日本
人は分け入って、生活の場を求めたのだろうか、というもの
でした。
農業をするにしても商業・工業をするにしても、こんな辺鄙な
ところまで、分け入る必要があったのかなぁ、という疑問です。
下の大きな街まで、当時歩いて2日かかったといいます。
バス停のそばのテント張りの店で野菜を売っている人達と話を
しました。
家族や兄弟が山の中で野菜を作り、ここで売っているとのこと
でした。
話をすると、その人達は、台湾原住民の、いわゆる山地同胞と
いわれる(日本時代は蕃人、後に高砂族)人達で、多くある部族
の中のタイヤル族の人達でした。霧社はタイヤル族の地域です。
当時の日本人は山の中で暮らしている人達に町や学校や公共施設
を造るに当たり、材木を何日までに何本とか、かなり過酷な要求
をしたりしていたようです。警察権力で住民の不満を押し殺そう
としていたようです。
野菜を売っていた女の人に聞くと、私達は親達が日本時代に教育
を受けたので、日本人自体を恨んではいないが、日本人はかなり
ひどいことをしたと思う、とおしゃいました。
蜂起した人達は手の甲に穴を開けられ針金を通され、いま警察署
のあるあたりに穴を掘らされ、その中に埋められ、上から土をか
ぶせられた、とおっしゃいました。
また、こうもおしゃいました。
当時のタイヤル族の人達は、霧社にいる日本人を殺せば、日本人
がいなくなり、昔のタイヤル族だけの平和な環境に戻ると思って
いた。彼女の言葉で言えば、彼らは「社会」を知らなかった。
日本的にいえば、日清戦争で台湾が日本領土となり、総督府が置
かれ、警察、軍隊があり、台湾政策がとられていたわけで、タイ
ヤル族の人達の当時の世界と、東京が考える世界は自ずから異な
っていたことでしょう。
バス停から5分ぐらいのところに、霧社山胞抗日起義紀念碑の建つ
公園があります。先ほどの婦人の話では、日本が中華民国・台湾
と国交を断絶し、中華人民共和国と国交を結んだ当時、この碑は
建ったそうです。
霧社事件の起こった公学校跡は今は台湾電力の建物になって
ました。
いつまでたっても、奥深いこの霧社は、政治的ですね。
(注1)
@日清戦争のあと、下関条約で台湾は、1895年(明治28年)
日本に割譲された。
A1930年(昭和5年)10月、モーナルーダオに率いられたタイヤル
族の蜂起部隊(霧社11集落、約2200名のうち6集落の300人)は、
霧社分室管内の各駐在所を順次に襲撃し、巡査とその家族を殺害し
、武器を手に入れ、運動会中の公学校を襲った。
B日本当局は警察、軍隊を投入し、蜂起に参加しなかったタイヤ
ル族を先頭にさせ総攻撃した。航空機、毒ガス弾も使用し、50余日
で鎮圧した。
C翌年、投降者を殺害した。(第2霧社事件)
D残りの者も、「帰順式」の席上で秘密裏に処刑した。